クンナ・ダッシュのプロフィール
(在日25年)
 クンナ・ダッシュと申します。カーストはバラモン、1969年生まれ、インド・オリッサ州プリー出身。、外国人が泊まる宿「サンタナ」を父が1952年に始めて、現在までインドのオリッサ州のプリーという町で経営しております。

オリッサ州はインド東部で、4大都市のコルカタから海岸沿いを南に500キロ下った所にあり、世界地図で見るとインドの中でも日本よりに位置しています。人口は約4500万人、 面積は、日本の約半分の155,707km2で、 水に恵まれた広大な国土と天然資源として石炭・クロム鉱石・ボーキサイト・鉄鉱石・マンガン・雲母・チタン鉱石また海洋性天然ガスなど豊富に産出されています。 これらの資源をもっと有効活用できれば、オリッサ州の発展につながると思っています。
オリッサ州プリーは、ベンガル湾沿いの300キロも続く白い砂浜があること、インドの中でも四大聖地のひとつとして知られており、毎年開催される山車祭りは、京都の祇園祭の由来とも言われています。また、世界遺産と数多くの仏教遺跡や大自然に恵まれている為か、世界中から多くの観光客が訪れています。私は子供の時から父の経営する宿を手伝っており、お客様のなかでも、日本人の宿泊者が多かったので、自然と日本人の性格やマナーなどを見て日本への興味を抱きました。


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★1952年に父が始めたサンタナは、今でも続いています

子供の時から非常に好奇心旺盛であったこともあり、社会や文化、他国の言語などを独学で学びたいという気持ちが非常に強く、このことから日本語を習得して、将来、日本へ行ってみたいという希望を持ちました。そして、1990年2月から6月まで、インドで知り合いになった日本人に会いに初めて日本に行きました。その時には、和歌山や他にも日本人の友人の所など日本各地に行きました。友人たちは、みんな温かく迎えてくれ、本当にうれしかったです。できれば、そのまま日本に残りたかったのですが、まだ19歳でしたし、インドの両親には観光目的で行くと伝えていたので、一旦インドに帰る事にしました。
 

そのときから、日本へ行きたい気持ちにかわりなく、ずっと心に残っていましたので、1993年に再び、日本に行く事を実現
できた時には、心から感動しました。


 来日してからは、日本各地で色々な日本文化を学び、多くの日本人と話をしました。その時に感じたのは、日本人がインドへのちょっと間違ったイメージを持っている事でした。(例えば、インドは年中暑いとか、毎日カレーばかり食べて飽きないの?とか、毎日、辛いカレーを食べて大丈夫なの?とかです。)

私が答えていたのは、日本人が味噌汁を飲んでいる事とインド人がカレーを食べる事は一緒であり、またインドのカレーは辛いだけでなく、それぞれのカレーにそれぞれの味があり、唐辛子は辛いけれどインドのカレーには唐辛子だけではなく、体に効果のある色々なスパイスが使われている、というようなことでした。例えば、インドのカレーに多く使われるウコンには、殺菌作用や肝臓の働きを良くする効果等があります。このように私は日本人のインドへの質問に対して答えながら、日本人にインドについての正しい知識を持ってもらおうと話をしていました。

そして、口からの文化交流をはじめようと思いました。まずは、人々の交流場所を作り、様々な交流をすること、自分の国の料理をおいしく食べてもらう事、それが自分の国への理解を深めてもらえる事につながると思ったからです。そして、1994年に、クンナという名前の交流場を、神戸の異人館の隣ではじめました。

1995年阪神淡路大震災で被災しました。
しばらくは、地震の影響でいろいろと大変でした。その後、友人たちの協力で、なんとか大阪のミナミ(西道頓堀)で、交流場としてお店を開けることができました。


道頓堀の東側は、有名なので人通りも多いのですが、お店のある道頓堀西側には人通りが少なく、最初は本当に苦労しました。そこで、人通りの多い東側に出向いて、一人一人に声をかけて自分でお店のチラシを配り、なんとか西側の自分のお店にお客さんが来てくれるようになりました。チラシを配りながら、お客さんとの交流と地元の方々と知り合いになることができました。私には、大変貴重な体験でした。知り合いになった西道頓堀の地元の方々と、西側に人通りを多くするため、みんなで食べ歩き本(みんなのミナミ)を製作しました。2003年、2004年、2005年の3年間続けて製作しました

この本をみんなで配って、西側にお客さんが増えるような活動をしました。この時期は、まだインターネットでお店の検索をすることやフリーペーパーもなかった時期でしたが、私たちは、西側に人通りが少なく暇だから待っているのではなく、みんなで協力し食べ歩き本(みんなのミナミ)を製作しました。また地元のみんなで力をあわせて取り組んでいる姿に、隣の町のひとたちも大変感動していました。また、この出来事にマスコミも取り上げてくれました。

もうひとつは、私が松平健さんに似ている事で、いろいろな番組に出る事になりました。


例えば、笑っていいとも、あっこにおまかせ、宮迫さんの世界行ってみたらこんな所だった、ひるどき、探偵ナイトスクープ、たかじんのそこまで言って委員会、おはよう朝日です、NHKのぐるっと関西、NHKのニュース、あまからアベニュー、ちちんぷいぷい、せやねん、ほんわかテレビ、なにわ友あれ、魔法のレストラン、つるべさんのぱぺぽ、しっとこ、円さんのよーいどん、ワイドABCです、ミヤネ屋、あさすま、きらきらあふろ、はらぺこ亭、ほかいろいろたくさん出る事になりました。

このような番組に出た事で、お金持ちと思っている人たちもたくさんいると思います。ただ、メディアを通じて多くの方々に、インドと日本について日本全国により早く伝える事ができたこと、日本で「インドブーム!」が起こせたことについて、この場をかりて、メディア関係者の方々に感謝しております。現在では、日本の小さな町でもラーメン店と同じ感覚でインド料理店も見かけるようになりました。

私が外国人という抵抗があったかもしれませんが、このような活動をみて、町内の方からお誘い頂き、道頓堀町内会役員にもなりました。おそらく、外国人を町内会役員に選ぶ事は、はじめてのことでした。歴史ある町内会に、私を受け入れてもらえたこと、心より感謝しています。益々、日本のために力を入れ、頑張っていこうと思いました。そのときに、ミナミをきれいにすること、道頓堀川沿いの歩く歩道をつくることについて、また安全な街づくりについてみんなで頑張りました。
こうした活動により、道頓堀が川沿いで東側と西側がつながって、歩く歩道ができたり、外国人も多く訪れる様になり、新しい顔の道頓堀に生まれ変わりました。

この時期には、大学や専門学校、高校などでもインドについての講演をする機会を多くいただきました。これまでの自分の経験した事、インドの現状などついてギャグを交えながら話をしました。徐々に、日本の学生がインドでボランティア、インターシップを希望する声が多くなりましたが、言語の問題などあり、なかなかインドで日本の学生を受け入れてもらえる場所が少ないということを聞いておりました。

そこで、インドで日本の方を受け入れる場所をつくること、故郷のオリッサ州に恩返しをしたい気持ちがずっとありましたので、2004年に、故郷オリッサ州プリーでチャンドラ・セカール・アカデミー学校を作りました。インドの大都市では近代化が進んでいる一方で、東インドのオリッサ州プりーではまだまだ一般の人々の生活は困窮し、子供たちの教育より労働を優先するため、就学率が低くなっています。このような状況の子供たちが一人でも多く学校に行けるよう支援をするため学校を設立しました。
この学校は、2015年現在、幼稚園から高校までになり、CBSEの英語教育の学校です。この学校の特徴として、英語教育の中に、日本語と日本文化も教えています。この取り組みは、この学校の生徒が日本の大学に留学することや日系企業に就職することにつながるように考えています。将来インドと日本の架け橋になるよう期待しています。
多くの日本人ボランティアの方々の支えのお陰で、現在まで成り立っています。日本語教師の資格がなくても、日本の文化(折り紙、音楽、スポーツなど)を紹介したい方も大歓迎です。期間は、短期からでも構いません。インドの学校で、子供たちと日本文化を通じて交流してみませんか。


2006年には、インドと日本のよりよい関係をつくるために、NPO法人インド日本友の会をみんなでつくりました。その理事長を、私は任されました。
みんなに声をかけて、40人ぐらいで、インドで日本文化紹介のため、インド日本親善ツアーを行いました。そのときのメンバーには、俳優の林与一さんもおられ、日本舞踊を披露してくださいました。

2007年は、日印交流年の記念の年で、インドと日本の両国で、インドで日本の祭りと日本でインドの祭りを開催しました。奈良県大和郡山市のやまと獅子太鼓と島根県浜田市の石見神楽・西村神楽社中の皆様40名でインドに行き、オリッサ州の3都市で日本文化公演を開催しました。その恩返しとして、日本にインド子供舞踊団を招き、インドに行ってくれた2団体の町、島根県浜田市の浜っ子祭りで公演したり、奈良県大和郡山市での公演の他にも学校、病院、東大寺、薬師寺など日本各地30箇所で公演を開催し、インドと日本の交流を深めました。また、大阪岬町で、サンドアート祭りも開催しました。

2008年は、オリッサ州農業大臣が日本視察に来られ、東京、京都、奈良、大阪、和歌山、神戸、広島などの各地を通訳として、大臣に同行しました。
 


2008年までは道頓堀の相互タクシーの隣で西道頓堀のネオンの下の所でお店をやり、奈良の大和郡山に縁があって(大和郡山にあるやまと獅子太鼓を2007年の日印交流年の記念祭開催のためインドに連れて行ったこと)、そこの人たちの協力で、2009年に、お店と一緒にインド日本交流センターを設置しました。

2010年のせんとくん事業の一つとして、東大寺の大仏開眼をした僧呂は、インド僧の菩提センナといい、奈良の大安寺から東大寺まで当時を再現するようにパレードが行われ、私はインド僧の菩提センナ役として参加しました。

2011年に、多くの日本に興味がある外国人に、日本の事をもっと知って欲しいという思いから、北海道から沖縄まで日本各地の25名に得意分野(文化・教育・食・経済・政治等について伝えたい事を書いてもらい、その文章の漢字の上にふり仮名をふった「みんなの日本」〜all about japan〜という本をつくりました。
私の願いは、この本が日本の事を勉強したい外国人の為に役立ち、また日本語学習中の外国人に役立って欲しいという事です。
この本が日本に興味のある外国人や、また、日本人であっても日本の色々について再認識してもらえるきっかけとなることを信じています。そして、この本を通じてはじめて日本を知り興味をもった外国人の旅行者が増えれば幸いです。 この本については今後も続けて出版していきたいと思っておりますので、皆様の貴重なご意見をお待ちしております。
 改めて、この場をお借りして、この本にご協力いただいた全ての関係者の皆様に感謝申し上げます。

2012年の1月ぐらいに、インドにいる80歳の父の病状が悪化し、インドには保健制度がないため、治療費は自己負担で、私は長男ですが長い間日本にいてしまったことで、父の思いは宿を継いでもらいたかったが、わたしがいろいろな夢をもって日本に行ってしまった事、私は日本のお店を任して、いまこそ親孝行をしたいと思いインドに来ました。今年は日インド国交樹立60周年の記念の年ということもあり、インドで父の面倒をみながら、日本のPRもやりたいと考え、今現在私がお世話になっている奈良と京都から始めようとおもいました。2つの町には、仏教のお寺がたくさんあること、こちらのオリッサ州にも仏教遺跡やお寺が多くあるというつながりと、奈良県からいただいた観光パンフレットとPRビデオを上映し、奈良のPRをおこないました。
京都・祇園祭りの由来は、ここオリッサ州プリーで毎年開催されている山車祭り・ラタヤットラといわれています。そのラタヤットラの時期に、京都のひとたちが来られ、みんなで小さい山車をつくり、山車を引きました。

日本映画祭を開催し、現在の日本と昔を紹介する黒澤明監督の作品を上映しました。そのほかにも、和太鼓演奏、折り紙・写真展をかいさいしました。

その後には、アジアベースボールチャンピオンシップがオリッサ州で開催され、アジアの子供たちが参加し、その手伝いと、参加したアジアの子供たちが私の学校も訪問してくれ、子供たちに野球を紹介してくれました。

そのほかに、神戸大学のアイセックメンバーの方と京都文教大学の学生が、スタディツアーで私の学校に来てくれました。日本語教師のアシスタントと子供たちに日本の遊び紹介(折り紙など)や、インドのサンドアートを習ったり、プリーブランチのマザーテレサ障害施設で食事介助や食器を洗ったり、また日本のゴミのリサイクルやゴミの分別について子供たちに教えたり、他にインドの大学の訪問をしたり、今までは日本語が出来ないと日本の大学に留学できないと思っていたことが、日本のグローバル30の13大学では英語での授業が可能となり、日本語ができなくても留学ができるようになったことについてのPRをしていました。


私が、長くインドにいて、父も安心し、病状も安定してきました。私は、長い期間インドに滞在したことで、親孝行ができ、また日本のPRもできたこと、大変うれしく思っています。ただ、この半年間は、ずっとインドに頭をいれており、日本にいる人たちは、私が日本に来ない、インドに帰ってしまったと思っている人が多くいます。はじめの1月から4月までは、父の病気のことでインドと日本を行ったり来たりしていましたが、あまりに交通費がかかりすぎるので、4月以降からは、ずっとインドにいて、父の病気をよくすること、日本のPRをすることを決めていました。
その後、父の病状は安定していましたが、インドと日本の行き来で日本のお店を継続することは困難になり閉店しました。
今後は、父の病状を見ながらインドで日本のPRと日本でインドのPRをしていくことにきめました。

   
 
 

その後、一旦落ち着いていた父の病気がかなり悪化し、2014年5月5日こどもの日(月曜日)午後1時頃亡くなりました。偉大な父を失い、本当に寂しくてたまりませんでした。
この悲しみを乗り越え、これからも、学校や講演会やセミナーなどで、私のこれまでの生き方について伝えたり、インドに進出を考えている方へのアドバイスやサポートを行ったり、また、インドでは、日本の大学生のスタディツアーやボランティアを支援していくことや、インドの学校を拡大し日本語にもさらに力をいれ、日本語の普及に努めることやインド人の日本留学や就職の紹介、インドで日本の祭り、日本でインドの祭りを開催し、両国の絆を深めていく、こうした活動を続けていきます。2014年にプリーでヨガの学校「オーム・ヨガ・インターナショナルセンター」を設立し、様々なインストラクターのコースがあり、最短では45日のコースがあります。

2015年「世界一大きな絵2020」プロジェクトに参加しました。1つの国から1つの絵として、インドではチャンドラ・セカール・アカデミーが選ばれ、5メートルx5メートルの布に、全校生徒250名みんなで、オリッサ州とインドをテーマとして絵を描きました。2020年の東京オリンピックの会場に飾られる予定です。
日本側では、和歌山県の白浜砂祭りにサンドア−ティストと一緒に作品をつくり、優勝しました。

2015年11月3日(文化の日)京都国際交流会館で、門川大作 京都市市長より、インド人で初めて京都国際観光大使に任命されました。(京都市とバラナシ市のパートナーシティ)

2016年には、「志教育プロジェクト」に参加しました。子供達がより良い世界を創るため、自分自身の志を布に寄書しました。これも2020年東京オリンピックのスタジアムで披露される予定です。 これも、インドの代表としてチャンドラ・セカール・アカデミーの生徒が選ばれました。
日本側では、去年に引き続き、和歌山県の白浜砂祭りに参加し、優勝しました。

2017年、日本の外務省の招待を受け、JENESYSプログラムに生徒3名と先生1名が参加しました。これまで、日本語教育に力を入れてきたことで、このような大きなチャンスを頂き、参加者には大変名誉な事となりました。日本の東京、北海道を訪れ、ホームステイなどを通じて実際の日本を体験し、無事に帰国しました。関係者の皆様に感謝申し上げます。

2017年は日印友好交流年の認定事業として、インド・オリッサ州で”日本祭り&プリー・ロック・フェスティバル2017”3日間を開催し、さらにサンドアーティストSudarsan Pattnaik氏により日印友好交流年記念サンドアートを制作しました。
日本側では”インド祭り”を5月から6月で開催します。

今後共、文化交流を通じてインドと日本の懸け橋となれるよう、更には教育を通じても交流を図っていきます。日本の京都で、外国人の子供むけに、英語教育と日本語教育も取り入れた学校を開校する目標で頑張っていきたいと思っています。現在のインド・オリッサ州プリーにあるチャンドラ・セカール・アカデミーをイメージした学校づくりに取り組んでいきます。
これまでの皆様のご支援ご協力に感謝し、更に目標に向け努力していきます。今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

こうしたお互いの国に対する情報や生活サポート、日印ギャップ、インドセミナー、インドについての相談など
お問い合わせは”インド日本友の会”まで
    MAIL: ijfcj@yahoo.co.jp
 (お問い合わせ:和歌山事務所 住所:〒640-8151 和歌山県和歌山市屋形町3-24
090−3486−9403 クンナ・ダッシュまで
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 E-Mail: ijfcj@yahoo.co.jp